2017年08月10日

今年も朝顔


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25年目、早四半世期です。
今日、夫は仕事でしたので、墓地には昨日行きました。
ひまわり、ミント、千日紅、いずれも庭や畑に咲いていた花を持って。

朝顔は昨日初めて花が咲きましたが、前日休むのが遅くなりうっかり寝過ごし、8時ごろ見に行ったら、朝の強い日差しを受けて早くもしおれかけていました。
今日もまた8時過ぎでしたが、昨日よりは幾分元気でしたのでカメラに収めました。日差しが陰るとこれよりは少し元気になりましたが。
いつも5月に入って母の日のころ朝顔の種をまきます。

25年目の今日、午後ボランティアに行き、今日は4時ごろに帰宅できたので、それから畑で雑草の処理、落花生の土寄せ、ささげ、トマト、オクラ、青唐辛子の収穫などを暗くなるまでして、一日が過ぎました。
目下の気がかりは、闘病中の頼子をご家庭を挙げて支え励ましてくださった友達のご両親が、そろって体調を崩されてしまわれたこと。先日お目にかかりましたが、一日も早い回復を祈っています。
嬉しいことは女医さんになった頼子の小学校時代の友達に、先日十数年ぶりで会えたこと。お母さんにもなって、地域医療のために労しておられました。クリスチャンです。

病院のボランティアではもう何人もの方との、短い出会いの後のお別れを経験しました。
病院では患者さんが少しでも穏やかな時間を過ごせるよう、さまざまな取り組みをしていますが、ここでは入院されてから亡くなられるまでの期間が本当に短く、図書などの設備はあっても利用される方はほとんどいらっしゃいません。病状の緩和が大切な治療です。
かつて、がんセンターに入院していた頼子が、面会を終えて帰る私を、図書室で借りた本を帰すと言って傍らに抱えながら、エレベーターの所まで送ってくれた光景を思い出しますが、若い頼子が自分の未来を信じていたからこそ、書物から何かを得、学ぼうとしていたのかもしれません。
その思いは生きる気力につながってもいたような気がします。


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2017年05月25日

ボランティアを始めて(2)

誰かと別れるとき、もうこれが最後と思うのではなく、またいつでも会おうと思えば会える、と思ってさりげない別れをするのがいいですね。たとえその人と会うのがその時が最後になったとしても。
今日そんなことを思いながら、この方とは今日が最後だ、と思うお別れをしてきました。私と同年代の方で男性でした。
親しくお話をするようになったのは40日くらい前からだったと思います。
病院で、私がいつも顔を出す病室で、毎日、寝たきりの病人さんの面会に来ている高齢の方から「○○さんが『ボランティアさんに顔を見せてって言ってよ』って言ってたよ」と伺ったので、それから顔を出すようになりました。
もう病気が進行していて、余命いくばくもないことを知らされていました。
ある医院に何か月も通い、点滴をすると症状がよくなりを繰り返していて、あるときそれが全くきかなくなり、検査をして末期だということがわかったそうです。
まだ体の自由がきいた頃、病院では比較的自由に過ごされていました。
資産家でご家族はなく、遠縁に当たられる立場のような方が、いつもお見舞いに見えていました。
人生に思い残すことがいっぱいおありだろう、そう思いながらその方が話す、さりげない冗談や愚痴などを聞いていました。
この前伺ったとき、そのお見舞いに来られていた方がつらい過去の状況のことを話されました。
とても苦しんでいて、そのことから今も立ち直れていませんでした。
今日病院に行くとその方が病室の前にかがんでおられます。
「お部屋に入らないんですか」というと、行き違いがあって病人の方が怒り、中に入れないと言われます。
私は病室の中に入り「表に来ておられますよ」とその方のことを言いました。
「とても心配していらっしゃいますよ。中に入っていただいていいですか」と聞くとうなずかれたので、その方をお呼びしました。
その方は病人の手を取って泣いておられました。それから私はその部屋を出ました。
帰るとき、またその病室に行きました。もう間もなく旅立たれるのだと思いました。
有り余るものを得ていて、健康と心の安らぎだけが得られない、思い残すことがいっぱいおありだろう、と思うとお気の毒で、目頭が熱くなりました。
手を取って黙とうしていますとその方は手を組まれて、私のために祈っているよ、と言われました。
声を出して祈って差し上げたかったのですが、廊下からはカーテン一枚で、ナースステーションもすぐ近くにあったので、勇気が出ませんでした。それで「私も」とだけ言いました。
帰りながら、後悔がいっぱいでした。祈ってほしいと思われていたのではないかと。今もそのことを思うと涙があふれます。今はただその方の魂が安らかであるように、苦しまずに旅立たれるようにと祈っています。

昨年から今年にかけて、たくさんの方とのお別れを経験しました。教会関係だけでも5人の方の訃報に接しました。
先週はお若い求道者の方が召されました。
親族だけの葬儀とお聞きして、司式をされる先生にメールをお送りしました。
「汝ら今は知らず、後悟るべし」とのみ言葉を、娘が亡くなったとき多くの方から頂きましたが、有限なこの世時間を生きる身には測り知れない事が、この度も現実になってしまったのかと思わされます。
ご遺族にとりましては到底受け入れがたい現実であろうと思いますが、いつの日か愛する方を天に送られた悲しみが癒され、一粒の麦となられた尊い犠牲を受け止めて生きてゆかれる日が訪れますよう、お祈りいたします。


先生が礼拝で、ご両親がとても悲しんでおられたと言われ、同じ苦しみを通った人だけがその思いを理解できるのだと思います、と言われて、私のことを少しお話になりました。
今後ご遺族とお目にかかる機会もあるかと思います。
頼子の追悼集で、一粒の麦のみ言葉とともに、
「神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも、慰めることができるのです」
と書いた,第2コリント一章のみ言葉が、内に働いて、真実のものとなりますよう願っています。

病院ボランティアを始めて、私はこのブログに思いを綴りながら、ある一つの言葉を使うことは意識的に避けてきました。それは誰にも言わずにこのブログを書いていますので、私の今を知る人が、その言葉からここを探し出さないために。
病院でお会いするお一人お一人との短い出会いに真摯に向き合い、その中で生かされ、これからの人生を見つめて行きたいと思っています。

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2017年03月31日

小説『雪菜の話』終


 休み明けに須藤が再び勤務についた時、雪菜のいた病室に入院していたのは脳梗塞で重態になった高齢の男性患者だった。
 激しい頭痛がしていたのを一日我慢してしまったという。翌日救急車で搬送されたが、小脳に出血が見られ回復の見込みは薄いという診断が下されていた。
 搬送された時患者にはまだ意識があったが今はもうなくなっていて、やはり高齢の妻が不安げに付き添っていた。
 消灯時間を過ぎたころ「痰が喉に絡んで父さんは息ができないでいる」と妻が訴えてきた。
 もう何度も同じ訴えをしている。看護師が処置に向かい、その後で須藤も様子を見に行った。患者はもう楽な呼吸に戻っていた。
「奥さんもお休みにならないと倒れてしまいますよ」と須藤は妻の身体を案じて言った。妻は「死ぬならうちにつれて帰って死なせてやりたい」とぽつりと言った。
 数か月前まで老夫婦は東北の田舎で畑を作りながら暮らしていたが、息子の家族に引き取られた矢先の出来事だったという。夫婦の子どもたちは皆都市部に出てきているので、高齢の両親を案じて呼び寄せられたらしかった。医療機関もない過疎地での暮らしを子どもたちが心配し、渋る両親を説き伏せて連れてきたのだった。しかし老いた両親は都会での暮らしに馴染めず、村の暮らしを懐かしがっていた。 
 妻は年老いた夫の顔を覗き込みながら「父さんは家に帰りたいと言っていた。家で死なせてやりたい」と繰り返していた。
 休日のその日、子どもたちは長男を残してそれぞれの自宅に引き上げていたが、すでに父親の付き添いは交代でというような話し合いがなされているらしい。幸い子どもたちの家庭はそれぞれの子ども、患者にとっては孫に当たる人たちが成人していて、何とかやりくりすれば人手はありそうだった。
 こうしたケースはごく恵まれたケースと言わなければならないことを、須藤は医学生時代からの数多い例を見て知っていた。
 急を要する知らせに取るものも取りあえず駆けつけても、親の看護をするには自分たちの生活を犠牲にしなければならない。そのことを良しとしない子どもがいかにも多いのだ。反対に親の介護に子どもが押しつぶされてしまう例もある。闘病が長引けば、あらゆる負担が重くのしかかり、子どもがその後の人生をなくしてしまう例もあるのだ。
 人生の最終局面を人はどう迎えるのかという重さも含めて、老いの問題は人間誰しもがいつかは直面しなければならないことだと思った。
 いずれにしても人はみな死を迎えるのだ。その命を終える最期の闘いを、人は自分で負わなければならない。


 降り積もった雪に強い朝の光が射している。
 須藤健介は昨日からの勤務を終えたところだった。雪菜がこの病院に入院していたのは幾日も前のことのようだった。それでいて病院のどこかから彼女が現れ、今にも自分の名を呼ばれるような気がした。
 引き継ぎを終えた須藤はそのまま更衣室に向かおうとしたが、今日、雪菜の葬儀が行われるという斎場はどのあたりだろうと思い、屋上にのぼって行った。そこでひそかに雪菜を見送ろうと思ったのだ。
 屋上に吹く風は冷たかった。フェンスに沿って植栽された木々の枝や葉に積もった雪が風花を散らしている。それは須藤の顔にも容赦なく吹き付けてきた。須藤は目をつぶった。
 昨夜はわずかな仮眠を取れただけだった。外科に患者を搬送する救急車のサイレンが鳴り響く夜だった。ひとつの命の闘いが終わってもまた別の新しい闘いが始まっている……
 屋上に立った彼は不意にめまいを覚え、次に激しい胸の痛みと息苦しさにおそわれた。そしてもうそこに立っていることができなかった。
 屋上にいることをあきらめた彼は、重い扉を押して再び建物内に入り、階段の手すりにつかまりながらおぼつかない足取りで下の階まで降りてきた。
 階段のそばに壁を背にして据えられた長椅子があった。そこに手を伸ばし崩れるように横になると、彼はもう睡魔に勝てなかった。そして意識を失うようにして眠りに落ち、またたく間に夢を見た。まっ白いドレスを着た雪菜が飛ぶように病院の廊下を走ってきた。
「ああ雪菜ちゃん、また会えたんだね」
 須藤はあふれる喜びの中でふわふわと漂うような雪菜の身体を受けとめた。
「どうして死んじゃったの? どうして」と繰り返しながら、彼はこのとめどなく深い嘆きをかつても味わったように思った。
 雪菜はもう須藤を「先生」とは呼ばなかった。一言も言葉は発しなかった。だがその思いが須藤には読み取れた。その心が今はもう悲しんではいず、満ち足りた思いのなかにあることを。
 自分のしゃくりあげる気配で我に返ると、彼は反射的に起き上がった。めまいはもうなくなっていて、深い眠りのあとのようなさわやかさの中に立っていた。それから彼は自分の行動の奇異さに気付いて周囲を見渡した。そして自分がまだ白衣のままだったことに気付いた。それから時計を見た。腕時計の針はちょうど雪菜の出棺の時刻を指していた。
 須藤は再び階段をのぼって屋上へ出た。彼の視野は、今度はいつも見慣れたこの屋上からの風景を捉えることができた。
 転落防止のために高い鉄線が張りめぐらされた屋上からの眺め。
 例年にない大雪に見舞われた周辺の屋根屋根は雪でおおわれていて、そこはなにかメルヘンの世界をうかがわせた。雪で滞った交通も今は回復していて町はいつもの活気を取り戻していた。
 遠く雪を頂いた富士が見え、その裾野からやはり雪をかぶったなだらかな山の稜線が見える。見渡す視界には一筋の煙の影も映らず、空はただ青く穏やかに澄み渡っていた。
 その光景がやがて涙でかすむのを覚えながら、彼は昔、いずみの葬儀の夜、ひとり流星に向かって叫び、泣いた時のことを思い出した。
 その後も幾たびとなく夢を見 て、嘆き続けた少年の日。張り裂けるような胸の痛みを感じたあの別れの記憶は、時の経過を経た今もなお鮮明だ。だがこうして大人になって、医師としての道を歩み、彼はその時には未だこの世に生まれ出でず、今またこうして世を去った幼い少女のために静かに涙を流し続けた。
 心が清涼な大気の中に溶け込んで、どこまでも透明になっていくような気がした。   
                                         この章 終

posted by kikyoukarukaya2 at 02:50| Comment(0) | 『雪菜の話』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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