2017年05月25日

ボランティアを始めて(2)

誰かと別れるとき、もうこれが最後と思うのではなく、またいつでも会おうと思えば会える、と思ってさりげない別れをするのがいいですね。たとえその人と会うのがその時が最後になったとしても。
今日そんなことを思いながら、この方とは今日が最後だ、と思うお別れをしてきました。私と同年代の方で男性でした。
親しくお話をするようになったのは40日くらい前からだったと思います。
病院で、私がいつも顔を出す病室で、毎日、寝たきりの病人さんの面会に来ている高齢の方から「○○さんが『ボランティアさんに顔を見せてって言ってよ』って言ってたよ」と伺ったので、それから顔を出すようになりました。
もう病気が進行していて、余命いくばくもないことを知らされていました。
ある医院に何か月も通い、点滴をすると症状がよくなりを繰り返していて、あるときそれが全くきかなくなり、検査をして末期だということがわかったそうです。
まだ体の自由がきいた頃、病院では比較的自由に過ごされていました。
資産家でご家族はなく、遠縁に当たられる立場のような方が、いつもお見舞いに見えていました。
人生に思い残すことがいっぱいおありだろう、そう思いながらその方が話す、さりげない冗談や愚痴などを聞いていました。
この前伺ったとき、そのお見舞いに来られていた方がつらい過去の状況のことを話されました。
とても苦しんでいて、そのことから今も立ち直れていませんでした。
今日病院に行くとその方が病室の前にかがんでおられます。
「お部屋に入らないんですか」というと、行き違いがあって病人の方が怒り、中に入れないと言われます。
私は病室の中に入り「表に来ておられますよ」とその方のことを言いました。
「とても心配していらっしゃいますよ。中に入っていただいていいですか」と聞くとうなずかれたので、その方をお呼びしました。
その方は病人の手を取って泣いておられました。それから私はその部屋を出ました。
帰るとき、またその病室に行きました。もう間もなく旅立たれるのだと思いました。
有り余るものを得ていて、健康と心の安らぎだけが得られない、思い残すことがいっぱいおありだろう、と思うとお気の毒で、目頭が熱くなりました。
手を取って黙とうしていますとその方は手を組まれて、私のために祈っているよ、と言われました。
声を出して祈って差し上げたかったのですが、廊下からはカーテン一枚で、ナースステーションもすぐ近くにあったので、勇気が出ませんでした。それで「私も」とだけ言いました。
帰りながら、後悔がいっぱいでした。祈ってほしいと思われていたのではないかと。今もそのことを思うと涙があふれます。今はただその方の魂が安らかであるように、苦しまずに旅立たれるようにと祈っています。

昨年から今年にかけて、たくさんの方とのお別れを経験しました。教会関係だけでも5人の方の訃報に接しました。
先週はお若い求道者の方が召されました。
親族だけの葬儀とお聞きして、司式をされる先生にメールをお送りしました。
「汝ら今は知らず、後悟るべし」とのみ言葉を、娘が亡くなったとき多くの方から頂きましたが、有限なこの世時間を生きる身には測り知れない事が、この度も現実になってしまったのかと思わされます。
ご遺族にとりましては到底受け入れがたい現実であろうと思いますが、いつの日か愛する方を天に送られた悲しみが癒され、一粒の麦となられた尊い犠牲を受け止めて生きてゆかれる日が訪れますよう、お祈りいたします。


先生が礼拝で、ご両親がとても悲しんでおられたと言われ、同じ苦しみを通った人だけがその思いを理解できるのだと思います、と言われて、私のことを少しお話になりました。
今後ご遺族とお目にかかる機会もあるかと思います。
頼子の追悼集で、一粒の麦のみ言葉とともに、
「神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも、慰めることができるのです」
と書いた,第2コリント一章のみ言葉が、内に働いて、真実のものとなりますよう願っています。

病院ボランティアを始めて、私はこのブログに思いを綴りながら、ある一つの言葉を使うことは意識的に避けてきました。それは誰にも言わずにこのブログを書いていますので、私の今を知る人が、その言葉からここを探し出さないために。
病院でお会いするお一人お一人との短い出会いに真摯に向き合い、その中で生かされ、これからの人生を見つめて行きたいと思っています。

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2017年03月30日

ボランティアを始めて

病院のターミナル病棟のボランティアを始めて一か月になります。この働きに加わって、自分の生きる目的が定まったように感じています。
病名の告知が一般的になった現在、また訪問介護などの医療制度が充実している今は、末期の患者さんが病院で過ごされる期間は短いことを最初に聞いていましたが、本当に別れは早く来て寂しさを感じるのですが、その一期一会を豊かなものにできた事を感謝しようと思っています。
医療従事者の患者さんへの思いは暖かく、患者さんやご家族の方は感謝して過ごされていることを感じます。他からもそのような声を多く聞いています。
ボランティアの働きは、決して行き過ぎず踏み込まず、ただ真心をもって仕えることが大切だと思っています。自分は、何かの足りないところに「間に合う」存在になれればいいと思います。

実は私は20年前にもこの病院でボランティアをしたことがありました。
今回、ボランティアの登録申し込みに行ったとき、担当者の方にそのことは話しましたが、子どもを亡くしていることはお伝えしませんでした。
後日私の状況をお知りになったその方が、病棟にもし若い患者さんが入院して来るようなことがあったら、私が辛くなるのではないかと心配してくださったことを知りました。
前にも書きましたが、私は一人一人の人生はみな違うのだからと思っていますから、幾分自分自身と重なることはあっても、そのことで悲観的になるようなことはありません。
しかしもし、病棟に若いまたは幼い患者さんが見えたら……、ただそのお子さんの親御さんの立場では、人生の終わりを意味する所への入院は忍びないのではないかというきがします。
幼い子どもさんにはその年齢に応じて適切な治療看護が行われる機関がありますから、重篤な若い患者さんに、ここで会うことはないのではないかと思います。



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2017年03月06日

大雪のその後

前回の記事を書いた後、各地に大雪の被害がたくさん出て、『雪見に行く』といった言葉が豪雪に苦しむ方々にとっては心無い表現ではなかったかと気になりました。
取り消しか、何かお詫びのようなことを書こうかと思いながら、適切な言葉も見つからず日々が過ぎました。
今年は比較的暖冬であったようですが、雪国に住む方々にとっては、雪かきや屋根の雪下ろしなど大変な冬であったと思います。
亡くなられた方もたくさんおられて、そうしたニュースを聞くたびに心を痛めていました。どんなことでも困難に直面している人の思いを理解しなければならないと思いました。

あの文を書いた時、入院していた頼子が、お世話になっていた塾の先生からの手紙を読んで、
『塾長からの手紙読んだ。雪が好きだって、私と同じだ』と書き、「雪降らないかな」と空を見上げていたときのことを思い出していました。
でも私は、雪が降ると病院に行けなくなるのを心配していました。以前にも書きましたが先生からのお手紙は次のようなものでした。

『ちゅうがくせいのころ、ゆきのふるゆうがた、がいとうのしたにたってずうっとそらをみつめていました。
まいおちるゆきがそのころのわたしのあてどないこころに なにかむげんのかなしみをさそひ わたしはじんせいにかくじつに せいしんせかいがじつざいするとつよくおもいました」』


私の住む地方は比較的雪の少ない地域です。それでも今年の冬は例年にない季節外れの雪に見舞われました。
前回書いた教会に来られている方のご家族で亡くなられた方は、雪国生まれの方でした。
病気が発見されたときすでに末期という宣告でしたが、昨年、季節外れの初雪が降った日に病床で洗礼を受けました。
教会で葬儀が行われたときふと窓辺を見ると雪がちらついていました。その日雪の予報は無かったのに、斎場でもわずかに雪が降ったそうです。
前向きに生きてきたその方の人生、命の期限を切られても家族を励ましていたというその方の新生と生涯の終わりに、生まれ育った故郷を思わせる雪がその装いになったのだという気がしたのでした。

いつものことながら、この度も更新が遅れましたが1月、予定どうり一人旅をしました。
運転や乗り物の心配や資金が最少で済むバスの旅。降りしきる雪、部屋の軒先に下がった大つらら。
次は友へのメールです。

早くも帰宅の日を迎えました。Mさんが、私の残った年賀状を見たいと言われたので、遅ればせながら、一緒に出しました。こちら、昨日から雪でしたが、今は晴れ間が見え、渓谷を風花が舞っています。帰りのバス待ち間、さっきまで、ホンヘッファーの獄中書簡集を読んでいました。そのご、なれないスマホ、ご判読ください。

心落ち着く時間でしたが、持参したボンヘッファーの獄中書簡集は到底読み切れず、わが身の、周囲に流されやすくあいまいな生き方を反省させられて、彼が胸中を吐露したページでは一度に1ページを読むのがやっとでした。
読み始めて最初に衝撃を受けたのは『義務によって生きる人は、結局悪魔に対してもまたその義務を果たさなければならなくなるだろう』という言葉でした。書簡も難しいものが多いのですが、両親との間で交わされた言葉は愛に満ちていて心打たれます。
この書簡集は箱入りの、立派な装丁でページも500Pあります。先生がなぜこの本を下さったか、実は私の手元には同じボンヘッファーの生涯を書いた森平太著『服従と抵抗への道』という文庫本があります。
頼子の本を自費出版したとき、その本を書かれた新教出版社の森岡社長さんから頂いたのです。

デートリッヒ・ボンヘッファーは1906年ドイツ生まれ、プロテスタントの牧師でしたがナチスへの抵抗運動からヒットラー殺害計画に加わり失敗し、1945年4月9日処刑されました。
彼の兄弟や親族も複数名、命を落としています。

『一九四四年九月末、ボンへッファーがテーゲルにおいて綴った、「モーセの死」と題する長詩がある。約束の地カナンを目前にしながらそこに入ることを許されず、――主によって命を取り去られたモーセの心事は――死への決断を迫られたボンヘッファーにして初めてよく理解できるところであったのだろう。
四月九日早朝、収容所の医者ヘルマン・フィッシャーは、ボンヘッファーが処刑前の控えの部屋に膝まずいて、祈っているのを見たという。』『服従と抵抗への道』 森平太著・新教出版社 



2月、誘ってくださる方がいて『沈黙』の映画を見てきました。
『沈黙』は遠藤周作がその本を出版した当時読みました。長与善郎の『青銅のキリスト』と題材が同じだったので驚き、史実に基づいたものであることが否応なくわかって衝撃を受けました。
夫はお城が好きでよく城巡りをしていますが、私は武家社会に抑圧された人がいたと思うと見られない、と言って誘われても同行しません。

病院のターミナル病棟のボランティアをさせて頂くようになりました。
そこでの詳細は口外できませんが、健康で過ごしていられる今を感謝し、何かできうる範囲でと思い決心しましたが、これは自分自身のためでもあると思います。


posted by kikyoukarukaya2 at 02:40| Comment(0) | その後の日々を生きて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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