2017年03月06日

大雪のその後

前回の記事を書いた後、各地に大雪の被害がたくさん出て、『雪見に行く』といった言葉が豪雪に苦しむ方々にとっては心無い表現ではなかったかと気になりました。
取り消しか、何かお詫びのようなことを書こうかと思いながら、適切な言葉も見つからず日々が過ぎました。
今年は比較的暖冬であったようですが、雪国に住む方々にとっては、雪かきや屋根の雪下ろしなど大変な冬であったと思います。
亡くなられた方もたくさんおられて、そうしたニュースを聞くたびに心を痛めていました。どんなことでも困難に直面している人の思いを理解しなければならないと思いました。

あの文を書いた時、入院していた頼子が、お世話になっていた塾の先生からの手紙を読んで、
『塾長からの手紙読んだ。雪が好きだって、私と同じだ』と書き、「雪降らないかな」と空を見上げていたときのことを思い出していました。
でも私は、雪が降ると病院に行けなくなるのを心配していました。以前にも書きましたが先生からのお手紙は次のようなものでした。

『ちゅうがくせいのころ、ゆきのふるゆうがた、がいとうのしたにたってずうっとそらをみつめていました。
まいおちるゆきがそのころのわたしのあてどないこころに なにかむげんのかなしみをさそひ わたしはじんせいにかくじつに せいしんせかいがじつざいするとつよくおもいました」』


私の住む地方は比較的雪の少ない地域です。それでも今年の冬は例年にない季節外れの雪に見舞われました。
前回書いた教会に来られている方のご家族で亡くなられた方は、雪国生まれの方でした。
病気が発見されたときすでに末期という宣告でしたが、昨年、季節外れの初雪が降った日に病床で洗礼を受けました。
教会で葬儀が行われたときふと窓辺を見ると雪がちらついていました。その日雪の予報は無かったのに、斎場でもわずかに雪が降ったそうです。
前向きに生きてきたその方の人生、命の期限を切られても家族を励ましていたというその方の新生と生涯の終わりに、生まれ育った故郷を思わせる雪がその装いになったのだという気がしたのでした。

いつものことながら、この度も更新が遅れましたが1月、予定どうり一人旅をしました。
運転や乗り物の心配や資金が最少で済むバスの旅。降りしきる雪、部屋の軒先に下がった大つらら。
次は友へのメールです。

早くも帰宅の日を迎えました。Mさんが、私の残った年賀状を見たいと言われたので、遅ればせながら、一緒に出しました。こちら、昨日から雪でしたが、今は晴れ間が見え、渓谷を風花が舞っています。帰りのバス待ち間、さっきまで、ホンヘッファーの獄中書簡集を読んでいました。そのご、なれないスマホ、ご判読ください。

心落ち着く時間でしたが、持参したボンヘッファーの獄中書簡集は到底読み切れず、わが身の、周囲に流されやすくあいまいな生き方を反省させられて、彼が胸中を吐露したページでは一度に1ページを読むのがやっとでした。
読み始めて最初に衝撃を受けたのは『義務によって生きる人は、結局悪魔に対してもまたその義務を果たさなければならなくなるだろう』という言葉でした。書簡も難しいものが多いのですが、両親との間で交わされた言葉は愛に満ちていて心打たれます。
この書簡集は箱入りの、立派な装丁でページも500Pあります。先生がなぜこの本を下さったか、実は私の手元には同じボンヘッファーの生涯を書いた森平太著『服従と抵抗への道』という文庫本があります。
頼子の本を自費出版したとき、その本を書かれた新教出版社の森岡社長さんから頂いたのです。

デートリッヒ・ボンヘッファーは1906年ドイツ生まれ、プロテスタントの牧師でしたがナチスへの抵抗運動からヒットラー殺害計画に加わり失敗し、1945年4月9日処刑されました。
彼の兄弟や親族も複数名、命を落としています。

『一九四四年九月末、ボンへッファーがテーゲルにおいて綴った、「モーセの死」と題する長詩がある。約束の地カナンを目前にしながらそこに入ることを許されず、――主によって命を取り去られたモーセの心事は――死への決断を迫られたボンヘッファーにして初めてよく理解できるところであったのだろう。
四月九日早朝、収容所の医者ヘルマン・フィッシャーは、ボンヘッファーが処刑前の控えの部屋に膝まずいて、祈っているのを見たという。』『服従と抵抗への道』 森平太著・新教出版社 



2月、誘ってくださる方がいて『沈黙』の映画を見てきました。
『沈黙』は遠藤周作がその本を出版した当時読みました。長与善郎の『青銅のキリスト』と題材が同じだったので驚き、史実に基づいたものであることが否応なくわかって衝撃を受けました。
夫はお城が好きでよく城巡りをしていますが、私は武家社会に抑圧された人がいたと思うと見られない、と言って誘われても同行しません。

病院のターミナル病棟のボランティアをさせて頂くようになりました。
そこでの詳細は口外できませんが、健康で過ごしていられる今を感謝し、何かできうる範囲でと思い決心しましたが、これは自分自身のためでもあると思います。

次回、これも決心して、電子化した小説(の一部)を掲載させて頂こうと思います。
よろしかったらご覧になってください。
posted by kikyoukarukaya2 at 02:40| Comment(0) | その後の日々を生きて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月13日

年末年始に思うこと

しばらくぶりにこのブログを開いてみました。
長い間更新できませんでしたのに、お訪ね下さる方がいらっしゃることに恐縮しております。

昨年の暮れから新年にかけて、夫が風邪をこじらせ、大みそかはずっと自室で休んでいました。
私はお正月の用意を心ばかりして、自分も疲れていたので久しぶりに、紅白歌合戦を一人こたつに入って見ながら、24年前、体が弱っていた頼子と一緒に歌合戦を見たときのことを思い出していました。
頼子はある一つの歌をききながら、食い入るように画面を眺めていました。頼子の様子が気がかりながら、まだ家事などをしていましたが、テレビを見ている頼子の表情が真剣なので、その歌のことが記憶に残ったのでした。
どんな歌だったのかその時はよくわかりませんでしたが、頼子が亡くなってしばらくしてその歌のことを思い出しました。
運動場の片隅で、好きだった人の競技する姿を眺めている、といった恋の歌だったように思いだせました。もしかしたらその人が死んでしまったという歌だったかも。でもそれ以上は思い出せませんでした。
ずいぶん後になってからそれが沢田知加子さんが歌う「会いたい」という歌だったことが分かりました。でも念のため、その年の紅白出場歌手と曲目を調べてみましたら、その歌は該当してなくて、私の記憶違いだったことが分かりました。しかしあのころのいつか、または裏番組か何かで、頼子はその歌を聴いていたのでした。
あの時、頼子は自分が亡くなるとは思っていなかったと思いますが、誰かを思う思いの切なさをわが身に感じていたのかもしれません。私の記憶に残っていたように、その歌は亡くなった人をしのぶ歌でした。
年が明けた1月5日、頼子は塾の冬期講習を休みたくないと言い、私は心配ながらいつものように車で送っていきました。塾の先生によりますと、その日人か動物かの死を扱った学習がなされ、頼子は非常に大人びた表情をして話に聞きいっていたそうです。
帰ってくるなり頼子は「私なんだか自分が死ぬような気がする。今まで悪い子だったことごめんなさい」といいました。
塾の先生はあとでその時の様子を話され、「あの教材は使うべきでなかった」と思われたと話しておられました。

クリスマスをはさんだ暮の12月と新しい年が明けたこの時期を、私はずっと静かに過ごしてきました。
今は辛いというだけではない、別の生き方を、大げさに言えば探り当てたと思う私ですが、娘の闘病が始まったこの時期を、心弾む思いで過ごすことはありませんでした。
クリスマスは夜のイブ礼拝には出ずに『クリスマスキャロル』や『汚れなき悪戯』や『わが谷は緑なりき』などのビデオを見て過ごしていました。
『わが谷は緑なりき』の終わりのほうで、一家の大黒柱であった父親は炭鉱の落盤事故で亡くなります。その救出を待つ妻(母親)が突然、
「今、あの人がきた、イボンヌと一緒に。神の国を見たと、私に話してくれたよ」といいますが、
イボンヌとは、かつて落盤事故で亡くなった夫婦の息子で、このとき夫(父親)は地中深く息を引き取ったのでした。
テレビで放映された『僕の生きる道』をビデオに撮ってからは、全巻を通し見していたのもこの時期でした。
頼子が亡くなって5年以上過ぎてから初めてイブ礼拝に出席しました。近くに住む友人に、行ってみたい、と言われたからです。それで二人で出かけイブ礼拝だけに出ました。
これから祝会が始まる教会を後にして外に出ると、冬空に星が瞬き、私ははしゃいで歌を即興で読みました。
(以前どこかに書いたような気がしますが)

『星見れば 千々にものこそたのしけれ わが身一つのイブにあらねど』それからは毎年クリスマスイブは教会で過ごしています。そして帰宅するとやはりビデオを見ていました。

ただお正月はどこにも出かけられませんでした。世間が晴れやかな気分で過ごすうちは家で静かに過ごしていたいと思い、教会も第2週からしか出席しませんでした。
以前お世話になっていた教会では、新年に全員の集合写真と、家族などの単位ごとに写真を撮ってくださっていました。
頼子が亡くなった年、元旦の礼拝は休みましたが第一聖日の3日には出席しました。
その日も集合写真を撮りました。頼子は体調が悪くどうすることもできない様子でした。私ははらはらしながら頼子に神経を集中させていましたが、周りの空気を壊すのがためらわれて、中座するとは言いだせませんでした。
並び順などに手間取りなかなか撮影が終わりませんでした。新年の晴れやかな会話の飛び交う中、もう立ってもいられない様子の頼子は、次に家族で写真を撮る話になったとき、早く帰りたいと泣き出してしまいました。
苦しむ頼子に我慢させてしまったその時の後悔が残って、みんながおめでとうと挨拶し合う中には入れないような思いがあったのです。そんな思いから頼子が亡くなってからは、新年は親戚との行き来もせず家で静かに過ごしていました。

その時から四半世紀近くがたちました。
今年は24年ぶりに元旦礼拝に出席しました。それはお祈りの順番になっていたからです。
礼拝が終わると、ご家族が突然の末期がんを宣告されたという方が、「先生からすすめられて、頼子さんの闘病記を読みました」と挨拶に来られました。そして「これから自分が超えて行かなければならない道だと思います。励まされました」と言われました。
久しぶりに元旦礼拝に出たこと、年末年始に夫が体調を崩したことなどで、今年は例年にもまして頼子の発病時期と現在の状況とが重なりました。かつて年の終わりにすっかり変わってしまった家族のことを思い、自分や家族の未来に対して、いつもは感じたことのない不安を感じました。
悲しみのさ中にいるときは、いつかはこれが終わるのだということが慰めでもあったのに、自分や夫の人生の終わりに、きちんと結末をつけられるだろうか、という不安を持ちました。
またあのころの1日1日の記憶が鮮明で、あの時、頼子は紙のように白い顔をして咳をしていたとか、市内の医院で病名を告げられて私が帰ってきたとき、突っ伏して泣いていたとか、冬枯れの荒野のような道を必死で車を走らせ、がんセンターに向かったこと、がんセンターですべてを告げられ厳しい現実を知っってしまった頼子を一人残して、自宅へと帰って行ったこと、その時見た町の灯りのことなど……
この度、この記事を書き始めた昨日12日は、24年前頼子の病名が分かり、がんセンターに入院した日でした。

この時車の中から見た見知らぬ街の風景を覚えてはいないが、ただ一つ思い出すことがある。それは家々の窓にともされた灯りだった。ありふれた人々の暮らしがあの灯りの下にある。一日の営みを終えて、家族は、あの灯りの下に集い安らぐのだ。絶え間ない笑い、そして喜び、あるいはちょっとした憂いに心を曇らせたりして、人はおおむね幸福に暮らすのだ。昨日までの私たちがそうだった。果てもなくそうした日々が続くものだと思っていた。だが今は何もかもが変わっていた。

全期間を通して、発病したこの時期のことを想い出すのが最も辛い。安易だった自分が責められてならない。あらゆる可能性に満ちていると思われた頼子の、人生への夢が音を立てて崩れた日。私は頼子が生きるにしても死ぬにしても、それと運命を共にしようとこの時思った。自分の未来への夢も、人生そのものへの執着もこの時すてた。


そしてこの日から24年後の昨日、元旦礼拝の後、教会でお声をかけて下さった方のご家族の訃報が入りました。
ここにまた新しい闘いが始まることを感じています。
愛する人との死による別れの悲しみは、人間の終わらない闘いです。いつかその衝撃から立ち直れても、別れはまた繰り返されていくものですから。
でも心からの愛は、たとえ悲しみに裏打ちされたものだとしてもその人の心を豊かにしてくれます。それは去って行った人の放つ光が悲しんでいる人の心に注がれるから、あるいは「悲しむものは幸いです」という聖書の言葉の約束があるから。

頼子の闘病記の「あとがき」に、一粒の麦が地に落ちて死ねば、豊かな実を結びますのヨハネ福音書の言葉とともに、次の言葉を記しました。
「神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも、慰めることができるのです」第二コリント一章。

私がブログを始めてから6年がたちました。きっかけは自分が書いた小説を紹介したかったからでした。それがおぼつかないまま、頼子のブログは途中から二つ目のブログとして加わりました。
先日教会で、頼子の本の話が出たとき、先生が「続きが読みたいですね」と言われました。これまで他の人からも何度か同じようなことを言われたことがあります。
続きは、重複しながらもこのブログに書いてきたのですが、このことは誰にも話していません。赤裸々に書いた部分も多く、頼子や私を知らない方に読んでいただければいいと思ってきました。
今日、教会で前夜式があり、その方は突然の病で、わずか3か月足らずの闘病期間でした。でも残されるご家族を励まし、信仰をもって亡くなられたことを知りました。
頼子と同じだと思って目頭が熱くなり、私は献花の時、白いカーネーションを参列の皆さんにお渡しするお手伝いをしました。

様々な状況から、人生の懸案を先延ばしにしてはいけないという境地に至って、実現していきたいことが二つあります。
間もなく来る頼子の38回目の誕生日の前後、一向に仕事を辞めようとしない夫をあきらめて、一人で雪見の旅に二泊で出かけます。と言っても行く先は温泉地なのですが、そこでお世話になっている母教会の先生から先日頂いた、ボンヘッファーの書簡集* を読んで時を過ごし、帰ってきたらまたこの欄に書き込みをしたいと思います。
前後しますが、明日は教会で告別式がもたれます。

*『ボンヘッファー獄中書簡集
「抵抗と信従」増補新版 E・べートゲ編 村上伸訳 新教出版社』
posted by kikyoukarukaya2 at 23:59| Comment(0) | その後の日々を生きて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月23日

23年後の告別式

21日の夜、以前お世話になっていた教会の姉妹から、前任者牧師ご夫妻の婦人牧師が19日に亡くなられたという電話を受けました。告別式が22日だという知らせ。
スマホのSMSで訃報と前夜式の日時を知らせたけど、来られなかったね、と言われました。
SMS、実は携帯も持たなかった私がスマホを持つことになったのですが、何もかも見よう見まねで、電話にもやっと出られるようになったところだったのです。それでSMSの合図が分かりませんでした。
日曜の聖日(せいじつ)前であったので金曜の前夜式は教会員だけでお別れの時を持った、とてもよい時だったので、あなたも来られればよかった、と言われました。
頼子が亡くなって、あの人もこの人もというように、たくさんの方々とのお別れをしてきました。亡くなった直後知人などの葬儀に出席した時など、「お子さんを思い出して辛くないですか」と聞かれることがよくありました。でも私はそれぞれの生涯は違うのだからと思い、頼子を思い出して辛いと思うようなことは一度もありませんでした。これはほかの人の幸せそうな姿を見ても同じことでした。
でも今回初めて、先生の死を通してあの頃の記憶が新しくされました。歩いていた通りの様子、人々の表情や言葉。長い年月が経ったと思いました。子どもが成人し、若い人が壮年に差し掛かり、壮年期にあった人が老境を迎える、失ったものも世を去った人も多い。時の流れはまさしくこの変化を私たちにもたらしたのでした。
頼子の告別式で、参列して下さった方々や友人たちの献花が続く中、先生は姉妹方の讃美歌に合わせてご自身も歌いながら、途切れなくオルガンを弾き続けて下さいました。力強い讃美歌で頼子を送って下さったのです。
また斎場で荼毘に附すとき、その日初めて涙を流した私に白い刺繍模様のハンカチを渡して下さった、その後も支えて下さり、多くの方々の悩みや病や死にも立ち会われたご生涯でした。
当時インマヌエル鴻巣教会牧師、尾崎清子先生。頼子が亡くなった年の暮に先生は一通のお手紙を送って下さいました。一部を頼子の追悼集の中に加えさせていただいたのですが、その言葉が今もずっと胸に響いています。

先生の書簡
 恵みと憐みに富み給う主の聖名を賛美申し上げます。神様のご真実と限りなきご愛のゆえにこの一年守られ、助けられて、今年最後の日を迎えました。
 皆様にとって生涯のうちでもっとも悲しい、忘れることのできない一年であったことと存じます。まことに年頭、事の重大さを知り戦われて参りました。そして年の終りに文字通り手元から離してお別れなさったわけです。思えば私ども教会員にとりましても、これほどに心を痛め、主を仰いだ一年はなかったように思います。「汝ら今は知らず、後悟るべし」と言われた主のみことばが、八月十日以後ずっと脳裏から離れません。やがて主にまみえる時、すべてが明らかにされ、感謝と共にうなずくことができると思います。
 一年最後の伝道会の折、ハガルの苦しみに答えて声をかけて下さった記事を思い出していました。すべてを見ていて下さる神様、そしてエジプトで苦しみ叫んでいたイスラエルの民を見、聞き、知っていて下さる神様(出エジプト記3−7,9)。
 どうぞ主にあって強くなって下さい。心くじけて後ろばかりを見ていることは、頼子さんが願っていなかったことと思います。新しい年、信仰も新たに前進して下さるようお祈りしております。私たちの人生は一年を送り、また新しい一年を迎える、この繰り返しです。しかし、単なる繰り返しであったならばとても空しいことです。そこに自分が今生きている証がなかったならば……。
 思えばあまりにも早く逝かれた頼子さんでしたが、その短い生涯において、だれもがなしえなかったと思うほどの、証しを残されました。その死を通して、多くの友人関係者を主に導かれました。この方々はもしこの悲しい死がなかったなら、あるいは生涯、教会とは無縁であったかもしれません。秀才と言われた頭脳や、素晴らしい多くの賜物をもってしても、これほど多くの人を(これからも)、教会に、主のもとに導くことはできなかったでしょう。神に喜ばれる生涯を、短い期間にかけ抜けて行きました。
 私たちに与えられている時間はどれくらいであるか誰も分かりません。ですから迎えます年、一年一年を、この年が最後であっても悔いのないように、恐れおののきつつ、信仰のよき証しを立てつつ走り抜かせていただきたいものです。
 大切な年頭、祈りのうちに意義深く過ごされますようお祈りしております。(後略)93・12・31

告別式メッセージ

 『彼は死にましたがその信仰によって、今なお語っています。
 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づくものは、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』へブル人への手紙11章より



posted by kikyoukarukaya2 at 23:07| Comment(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
タグクラウド