2018年06月01日

友の転居通知

ここ数年会うこともなくなっていた40年来の友人から、転居を知らせるはがきがきました。
新しい電話番号が書いてあったので電話をかけ話し込みました。持家を売って駅前のマンションに移ったとのこと。賃貸だそうです。
彼女はこれまでに大手術を3回受け、最初の手術は30年前でその時は私もご主人と一緒に手術に立ち会いました。昨年3回目の手術を受けたことを今年の年賀状で知らされていました。自分の今後に不安を感じて、しぶるご主人を説き伏せ転居に踏み切ったのだそうです。
荷物も居住空間も3分の1に減らし、ピアノもタンスも処分したとのこと。聞いていて少しさびしく、それでいて目標ができたようで頼もしくもあり、興味本位でいろいろ聞いてしまいました。
大きなタンスを捨てたので小さいタンスを探しているとのこと。今は穴倉のようなところで暮らしている、と言っていました。
彼女は10年ほど前だと思いますが、高齢のお母さんが一人暮らしが無理になり施設や病院に入れましたが、その時持家の処分で大変な思いをしたそうです。
子どもたちにあの苦労はさせられないと思い、それでも一応家がいるかどうか子どもさんに聞いたら「いらない」と言われ、「じゃ売っちゃうよ」「いいよ」というあっけなさだったそうです。
「あなた、もう何も買っちゃだめよ。あとで困るから」と自分の失敗談を交えて笑いながらアドバイスされました。私は「分かってる。主人にも話すわ」と言いました。
つい先ごろ私たち夫婦は新しいパソコン台を「買う、買わない」で言い争ったばかり。主人は何でも買ってしまうので「これから物を処分して行く年代なのに無くて済むものを買うのは反対」と争いになりました。
主人は釘が1本必要でも2箱も買ってくる人なので、同じようなことで私たちはもめますが、そういう私も頼子のものはなかなか捨てられません。
物があふれている現代は、その人にとって価値あるものでも他の人には意味をなさない物となる運命なのですが、せめて私の代で精一杯使い切ろう、それが自分にとって心地よいことなのだからと思っています。
その友のほかにも同じような選択をした人が幾人かいます。身近にいて去っていくという話を聞くのはさびしいことです。たとえ新しい生き方、幸せと思われる選択をされていくとしても、物理的なお別れをするというのは。
でも私も漠然とは中期的な願いは持っています。たぶんあと3年、健康的に許されるなら今のままでいて、3年したら教会の今の奉仕から一歩下がってこれまでできなかった生き方をしてみたいという思いがあります。
でも聖書にこんな言葉が、
『あなたがたには明日のことは分かりません。あなたがたの命はどのようなものでしょうか。あなたがたはしばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。
あなたがたはむしろ「主のみ心であれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」というべきです。』


然り。
教会の聖書がこれまでの新改訳から新改訳2017に代わりました。
ルターの宗教改革(1517年)から500年を記念して発行されました。教会で最初手にした文語訳のものが自分は好きで、まずその言葉が浮かんできてしまいますが、新しい訳の聖書も大変読みやすく親しみが持てます。
私たちの教会では4月から新しい聖書に代わりましたが、そのことが決まってから私は頼子の聖書を教会に持って行っていました。
そして聖書が新しくなったことも新しい一歩という気がして生き方を見つめ直しました。

友達の所には落ち着いた頃行く約束をしました。何よりも「駅近」というのが楽しみ。穴倉でも暮らし易いと喜んでいましたので。
何年か後、私たちも誰かに転居通知を送ることがあるのでしょうか。それを思うと、ちょっとドキッとしてしまいます。




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2018年05月30日

私の今ー2

『あゆみ』という教会の証し集への一文  (2002年10月発行)

『私の今』
6年前の8月、初めて当教会の礼拝に出席させて頂き、昨年4月に、夫と共に転会させて頂きました。これまでの神様の導きを心から感謝致します。
半生を振り返るとき、ここにこうしてある「今」が最も幸いと恵みに満ちたものであることを実感しています。
私には以前心のわだかまりとなっていた信仰の問題があり、長い間神様を見失っていた時期がありました。1993年に娘が病に倒れ召されましたが、その日から私のうちの何もかもが一変しました。神様は娘の魂を安全な場所に移すことにより、私をも導かれたのだと思います。そんな娘の闘病中のある出来事をここにお証したいと思います。
娘が亡くなる少し前に私たちは福島の新舞子浜というところにキャンプに行ったのですが、雨に降られた帰りの車の中で、つかの間に眠ったらしい娘は汗びっしょりで目覚めて「怖い夢を見た、私うなされなかった?」と聞きました。夢の中でたくさんの悪霊に囲まれ、信仰の問答をしていたというのです。
娘はその時そのころ読んでいたジョン・バニヤンの『天路歴程』の主人公「クリスチャン」が、悪霊と戦う場面を自分に重ねて夢に見ていたようでした。
悪霊に<お前の状況はすべて悪い方に向かっている、それでも神を信じるのか>と攻撃されながら<私は神様を信じ、明日も教会に行く。これでいい>と応酬した夢だったそうです。
「でも悪霊の数はいっぱいで次々に切りかかってくるので怖かった。それに私は素手で何の武器も持っていないの、戦う道具がなかったの」と訴えられました。
「クリスチャンは武器を持っていたけど、私はなかった」と悲しむ娘に『御霊の剣(つるぎ)すなわち神の言葉をとれ』というエペソ書の御言葉を伝えました。
『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。…… それによって悪いものが放つ火矢をみな消すことができます』
力強い保証が示されたこの聖書の一連の御言葉についていつか娘と話そうと思いました。その機会を持たないうちに娘は召されてしまいましたが、母親の不完全さを神様が完全に覆って下さったことを信じることができました。娘が輝いて召されたことを確信できたからです。その時から私は新しい生を生きるようになりました。娘が病になるまで、ずっと苦しみ続けていたわだかまりのことも、もう嘆きとして思い出すこともなくなりました。様々な思いはありましたがいつでも人生の有限と、娘の魂が移された場所を思って暮らしています。
今年娘の命日のころ、身内のものから電話がありました。例年のことですが、私がどんなふうに暮らしているのか気にしてくれていました。「穏やかで心騒ぐこともない暮らし。いろんなことから解放されて自由になれた」と答えました。
「私の今」は娘を天に送った瞬間に始まり、生涯の終わりまで続くもの、という気がします。
その「今」を、私は娘が病床で口にしていたテサロニケ前書5章の、
『常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ』の御言葉とともに生き、与えられたコースを走りたいと願っています。



先日このブログに記事を書いてから、思い出したことがあります。子どもの死を体験して、それまでのわだかまりから解放されて自由になれたことを間もなくのことのように感じていましたが、それがすべてではなく、いろいろな思いの中を通ったこと。苦しみの強さの比較から先の思いを超えざるを得なかったのですが、この先ずっと笑うこともなく生きていくのだろうと思っていたのでした。
思い出したのは、それまで自分には思うようにいかないことばかりがあったように思われ「重要な祈りが聞かれた経験が一度もない」と口にしていたことです。そう言いながら泣いていた自分だったことを思い出したのです。
改めて証し集を手に取り、発行時期を見て頼子の死から9年が経っていた文であることを知り、納得がいきました。それから後に始めたこのブログにも同じようなことを書いた気がしますが、世に言われているように、薄紙をはがすように立ち直ってこられた時の証しだったのだと思います。
それでも頼子の死の瞬間から、底辺にある悲しみの真上でそれまで見ることができなかったものに目が開かれ、新たな価値観の中で生きようと思えたことは事実です。頼子が亡くなったら自分も死のと思っていた、それが望みのない闘病中のよりどころだったのに、亡くなった後、死を思ったことは一度もありませんでした。

今病院で、重篤な患者さんとお会いして、時にその方の思いをお聞きすることがあります。子ども時代のことを話しながら涙されたり、声をあげて笑ったり、後悔している思いのことなども。
解決の糸口はどこにもないのですが、わずかながら人生における共感といったものを感じあえることがあります。そのことが頼子の時と同じように私に新たな力を与えてくれます。
いろいろな形で自分の前に展開されていく出来事があります。時に好まないこともありますが、求められたことからは逃げないようにしています。
余談ですが、ずーっと前、何十年も前、今もテレビで活躍されている俳優の関口宏さんが、自分は流れに逆らわずに生きる。その方が楽だから。というようなことを話されていました。その時私もなるほどと思い、以来自分も心してそのように生きるようにして来ました。だから重大なことでは別ですが、計画が途中でとん挫しても、約束のドタキャンがあっても平気で、一息ついてからまた別のことを考えます。重要なこととは以前にあって、私はそのため体調も崩しましたが、今は立ち直れて「思うように行かないのも人生だ」と思い、残されている恵みを数えて過ごしています。
時に疲れを感じて怠惰な生活に陥りそうになるとき「やりたいことがいっぱいある」と言いながらその時間がなかった頼子のことを考え自分を戒めます。頼子が一番やりたかったこととはなんだろう、とふと考えます。
25年があっという間に過ぎ、これから同じ年月は生きられないだろうということは確実ですが、私は気落ちせず、これから導かれていく場所場所がその時自分が生きるべきステージなのだと思っています。


posted by kikyoukarukaya2 at 02:35| Comment(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月27日

私の今−1


しばらくこのブログにももう一つのブログの方も、のぞくことができませんでした。
書くことからすっかり遠のいていたので、ここがどんなふうになっているのか不安でもありました。でもしばらく前、いろいろことのいち段落がついて重荷がおりたこともあり、手順も忘れそうだった「マイブログ」へのログインを果たしました。(皆様有難うございます。)
その時、自分の置かれている現在のことを書いたのですが、公開がためらわれて「非公開」のまま保存して今日に至っていました。
杉、ヒノキと続いた花粉症の症状も落ち着き、しばらく過ごしやすい日を送りましたが、今またカモガヤの季節到来となりました。しかしひところと比べるとずいぶん症状は楽になりました。
1年前、病院の緩和病棟でのボランティアをするための面接を受けた後、胸に付ける名札の写真を撮りました。おりしも花粉症の最中で、写真を撮られるのがためらわれたのですが、あとで撮りなおしてもいいですよ、と言われたこともあって決心し、写真に写りました。写真はその後撮りなおされることもなく、自分のような気がしない顔が映った名札を付けて、1年が過ぎました。

この1年、病院でいろいろな方々の「最後の生き方」ともいえるものに接しながら、私自身は出会った方々から本当に多くのものを受けてきた気がします。自分の人生のうちで最も得難い、魂を揺り動かされる切ない体験を何度も何度も味わってきたような気がします。でもそれらの方々との出会いの特殊性、見聞きしたことを内にとどめておかなければならないという約束事のために、あからさまに書くことはためらわれました。

病院のボランティアで、私は患者さんの、主に足裏やふくらはぎまでのマッサージをしてきました。末端に滞った血液を多少なりとも心臓に戻すための働きです。本当に幾分かの効果しかないかもしれませんが、それによって患者さんの苦痛が軽減されることは事実のようです。
最初「何ができますか」と尋ねられた時、マッサージの要請が多いと聞き、すぐにそれを申し出ました。
小学生の時、学校から帰ると病気で寝ていた祖母の肩をたたいたりもんだりしてあげていて、以後も身内に対して同じような機会が度々あり、長時間同じ動作を続けても苦痛を感じずそれをできるのが分かっていたので、自分にふさわしい働きだと思えたからです。

末期で入院されていて回復が望めない方ばかりなので、最初お元気そうに見えても日を追って弱られて行くのを目の当たりにします。それでもたとえ限られた時間でも、穏やかな時を過ごして頂けることを願い、その時々を過ごしてきました。
ご自分のことを話される方もいますし、何も話されない方もいます。どのような状況でもその方の思いを汲んで、ひたすらお仕える気持で接するようにしています。
ボランティアは患者さんの病状については立ち入れないので、まだお元気そうに見えてまた再び、と思っても、次に行ったとき亡くなられていることもしばしばです。そんな時いつも脳裏をよぎる小説の一部あります。ヘルマン・ヘッセの「デミアン」の最後の部分です。
戦争で瀕死の重傷を負った主人公が、ある広間のようなところに横たわっていたとき、長い間彼を支えてきたともいえる「デミアン」という人物に偶然再会します。その時彼は主人公に別れの言葉を言い残します。
「君がまた僕が必要になったら、自分の心の声に耳を澄ますんだ、そうすれば君の心の中に僕がいることに気付くだろう」
あくる朝目覚めると、デミアンのいたベッドには見知らぬ男が横たわっていた。というくだりです。
私も病院に行き、空になった病室や、ほかの人の名前がある病室を目の当たりにすると、いつもその小説のことを考えてしまいます。そして以前からずっと疑問だった「デミアン」は死んでしまったのだろうか、それともどこか別の場所で生きているのだろうか、と疑問の続きを考えます。デミアンにはいくらかの希望が残されていますが、しかしターミナルケアを目的としたここでの空になった病室は、多くの場合別れを意味しています。
先日も比較的長期間だったある方が亡くなられました。病室の前を通ったときドアが開いていて別の人が入っていたのでそれと知り、ああやはり、と思いました。その部屋に行く機会があり、ベッドに書かれていた入院日を確認して、少なくてもそれ以前に亡くなられたのだと思いました。あとで別の人から、翌日には別の人がその部屋に入ったと聞き死亡の日を確認できました。
ヘッセの小説の友との別れの箇所の続きは「包帯を替えるのは痛かった。その後の僕の人生に起こったことも何もかも痛かった」というようなことが書かれていて、それでも時折その友を思い出す、といった意味のことが心を打つ文章で書かれて物語が終わっています。

頼子が亡くなってこの8月で25年が経ちます。闘病においてはもうすでにその期間に入っています。
親として至らなかったことをいつも思い出す私ですが、頼子が残してくれた言葉で忘れられないのは「私これまで、一番大切でないものを大切だと思って生きてきた気がする」と言っていた言葉です。わずか14歳にしてこんなことを言っていたなんて、と心を打たれます。
人は人生の重大事に出会うようなことがなければ、きっとこのことには気付けない。日常の中に繰り広げられる雑多な出来事に翻弄されて無為に時を過ごしてしまいがちです。
若くして人生を終えたわが子を思えばどんな困難も乗り切れると思えた自分にも、その後挫折があり新たな苦しみの時がありました。そんな時、昔教会に通い始めたころ聞いたマタイ伝25章の10人の乙女のメッセージのことを思い出しました。

「このとき天国はともしびをとりて、花婿を迎えに出ずる十人の乙女になずらふべし。そのうちの五人は愚かにして五人は聡し。愚かなるものはともしびをとりて油を携えず、さときものは油を器に入れてともしびとともに携えたり」

(こののち)夜中に花婿がきたとき油を携えなかったものは婚礼に間に合わなかったのですが、当時衝撃をうけたのは「
時」という概念でした。その時のことを思い出しました。
メッセージの内容は「私たちはしばしば苦境に立たされ悩みますが、それでもその苦しみの中にもまだいくばくかの希望が残されています。財を失ってもまだ愛する家族があり、再建できる健康も残されているかもしれません。しかし油を携えなかった乙女にとっては、もはや何の希望も残されていない「永遠に終わりの時なのです」。

「光りあるうちに光の中を歩め」という言葉があります。(この本を読んでいませんが)自分にまだ残されているものを思いました。それを用いて「本当に大切なもののために残りの人生を生きよう」と思ったのです。それで立ち直ることができました。
先日、今の教会にきてまもなくの頃、教会で出した記念の証集の中に自分の書いた一文を見つけました。それを書いていたことも何を書いたのかも忘れていたので、恐る恐る読んでみました。「私の今」というタイトルで書いていました。読み返して、その頃の心境と今の思いとが変わっていないのを感じました。状況は変わったのですが、子どもの死によって、私が行きつくところは同じ思いの所なのだと思いました。

posted by kikyoukarukaya2 at 01:41| Comment(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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